カメラと写真が変える世界

久しぶりのエントリーです。

昨年の春からカメラ屋で働きだしました。
カメラは好きでしたが、大好きだったわけではありません。
子どもを撮るために一眼(デジタル)は所有していましたが、エントリーモデルのもの。
写真の基礎の本は読んだし、いい写真も撮りたいので何冊か本は読んでいたものの、素人レベル。

でもカメラが変わり写真を撮るようになると、世界が変わりました。


一眼を買ったとき、

「一眼を持つと世界が変わる」

という言葉を聞きました。
結果・・・

「変わりませんでした」

全く変化がなかったわけではないのですが。
写真もすごく良くなったし、携帯では撮れない写真が撮れます。
お出かけには必ず持ち歩いていくようになったし。

でもこれは

「写真が変わった」

だけで、世界が変わったというのは大げさです。
でも今回は世界が、人生すらも変わりました。

ただのカメラでは世界は変えられないと思うのです。
勤務先で扱うものはすべて中古ですがビンテージ品で今も価値があるもの。
そういうレンズで写真を撮ると・・・

「目に見えているものとは違う景色が撮れます」

特に光の加減で激変します。
今まで春と夏の光の違い、景色の違い。
冬の日差しの柔らかさや光の強さ。
そんなものを意識して生きてはきませんでした。

だから、常日頃、ほんの小さな出来事にも注意が行くようになり。
世界が変わります。

そうすると日常触れるものひとつひとつに注意が行くようになり、

「何故これがここにあるのか?これを使っているのか?」

ということも考えるようになりました。
だから人生すら変わってきています。

この世界に入らなければずっと気付かずに、
どうでもいいものに囲まれて、何かに追いやられるように生きていたでしょう。

今は気づいてしまった世界をよくするのに必死ですが。



いい生活をしたい。いい暮らしをしたい。

これってすごく当たり前なんだけど、できている人がどれだけいるか。
向き合っている人がどれだけいるか。

やっと今になってそれに気づいただけでも、この仕事ははかりきれない価値が自分にはありました。

就職して思うこと

先月より就職しました。
前回エントリー)「2年 振り返り」

新しい仕事をしながらも、この2年間の自分を何度も振り返っています。
自分が引っかかっていた点はいくつもあるのですが、いくつか要約すると

・マネタイズモデルが生み出せなかった
・先頭に立つより誰かのフォローをする方が好き
・活動開始前から「2年」を一つの区切りと考えていた
・一人がダメ。誰かに必要とされていたい
・自分の幸せが崩れているのに、人を幸せにできるのか

などなど。他にもたくさんあるのですが。。。


環境が変わり、働き始めて数週間。
今、仕事がすごく楽しいです。休みの日にも時間を突っ込んでます。
そして今後の話も面白い話ばかり。と、以前より楽しんでいる自分がいます。

今までは、

「何かを生み出さないと」

というプレッシャーがあったのだと思います。
大げさな言い方ですが、何かを生み出している実感が非常に乏しかった。
少なくとも、そういったものを感じにくい環境だったと思います。
そのうちに楽しめなくなっている自分がいました。



新しい仕事に関しては、せっかく声をかけていただいたので、この人たちに少しでも貢献したい。
と強く思うようになっています。

なので少なくとも数か月は新しい仕事に集中して、早く仕事を覚えて、
新しい会社のとても忙しい転換期のタイミングに、何が何でも貢献できればと思っています。

*****

4月。
過去2年間はこころのカゼがしんどかった月です。
今年も条件はそろっています。
もし働いていなければ、今頃一日の半分は伏せていたかもしれません。

2年 振り返り

前職をやめて2年が過ぎました。

振り返ってみてどこにも記録していませんでしたが、
退職の際に決めた期限は「2年」。

その理由は3年計画であれば2年で見通しがつくこと、
今年で転職の目安「35歳」を迎えること。
確固たる理由ではないのですが、そんな理由で2年という区切りを設定したと思います。

途中で「3年」という区切りも考えました。
やってみて、どうも2年で成果を出せるとは思えない。
「なんでも3年はやってみないとわからない」とも言います。

しかし、実際にはそんな年数より、今の自分は何もできない。
就活なんてできないだろうし、急に活動がうまくいくわけもなく。

今活動を辞めるにしても、やって「失敗した」というより、「まだやってない」というのが正直なところ。
でも何をやればいいのかは定かではありません。


そんなタイミングで全く違う仕事のお誘いをいただきました。


いくら時間があっても、時間をかければいいものではなく。
人との接点が少なすぎることもマイナスに感じており。
経済的な心配もずっと尽きなかった。

そこに今回のお誘い。
仕事の内容はとても興味のあるもので、超フレックス勤務で主夫の継続も可能。
これは一度身を任せて、バランスを取り直すいいチャンス。


 一緒にお仕事させていただくことにしました。



これできっぱり医療関係の活動はおしまい。

という気持ちはありません。
でも一人の大人として。ビジネスマンとして働いてきたプライドでしょうか。
誘ってもらった(受けた)仕事には真剣に取り組んで、結果を出したいです。

なので、向こう2〜3か月はいただいた仕事を優先して生活を組み立てたいと思います。

さすがに主夫&仕事&医療活動の3足の草鞋を履けるほどマンパワーのある人間ではないので。
仕事が落ち着いた頃に、また冷静になって考える時間を取って動けたらと思います。

軽症鬱に関しては今のところ効果的な手段は存在しない

先日、心の健康と自殺予防を考えるメンタルヘルス・シンポジウム
に参加してきました。

認知行動療法」について実践をしながら、最新の動向を学んできました。
今まで学んだことを再認識しながら、感覚的に感じていたことを改めて確認できる講座でした。

講義の中でのメモはこんな感じ。
・大うつはプチうつから進行していくことが多い(突然ならない)

・やや重いうつ病を前提に投薬中心の治療が行われているため、予防の視点が弱い

・プチうつの治療、予防はわかっていない。

・イギリスでは世界一認知行動療法が進んでいる
→しかしこれだけでは足りないという認識も→EFT(ツボ押す療法)などの研究が見直されるように
認知行動療法のセラピストが足りないという実態もある

・3つの取り込みの紹介。

1.セドナメソッド
2.EFT(体のツボをタップするテクニック)
3.パイロン・ケイティのワーク

しかし、どれも研究は進んでいるわけではないので、自己啓発手法として自分で取り組むしかない

・ポジィティブ心理学
→一時的な幸福度の上昇は見られたが、うつ症状は軽減しなかった。

認知行動療法の実践では
「ここれん」 心の練習5分間 悩みやストレスをとらえなおす、自分への7つの質問

を実践しました。

初対面の隣の席の人とやるのは結構ハードルが高かったのですが、
それでも人と話すこと自体は効果を感じられました。

ただワーク自体は、頭の中で考えて先に答えも出てしまっているので、
書き出す意味などはあるのか?
実際自分が個人として行ったワークとしては実施前後で変化は感じませんでした。


最後に、よくまとまっている論文。

ということで、下記の論文をご紹介いただきました。
実際読んでみるととてもいい内容です。

軽症鬱の自覚のある方や、どうも治る気配がない。という方はご一読ください。

未病うつに対する低強度メンタルヘルス・サービスにおける積極的な民間活力導入の提案

・内科医が正しくうつ病と診断することができたのは、実際の患者数の 19 %に過ぎない
・我が国での疫学調査では、うつ病患者のうち、受診している割合は 18.6 %と報告されている
うつ病に対する薬物療法は軽症になるほどメリットより有害事象等のデメリットが問題になりやすいと位置づけている
・軽症うつに対しては、認知行動療法を中心とした心理療法を基にした非薬物的介入が推奨
認知行動療法は現状では質と量のいずれにおいても充実した供給状態とは言えない。
・未病うつレベルの症状で認知行動療法を受けることは健康保険の枠組みでは事実上困難
・内因性うつ病と反応性うつ病という2つのタイプのうつ病が区別されている。
内因性うつ病は、薬物療法のような生物学的治療への反応性が高く、発症に遺伝的な関与が強く、環境的要素への反応性が低く、生物学的うつ病とも呼ばれる。
これに対し、反応性うつ病は、薬物療法への反応性が低く、環境的要因による反応性の高さから心理社会的介入の適応妥当性が高いとされ、非内因性うつ病とも呼ばれる。
内因性うつ病は相対的に症状の重症度が高く、反応性うつ病は症状が軽いことが多い。
伝統的には、内因性うつ病と反応性うつ病は明らかに異質のものとされ、特に、後者は性格的要因の影響が大きく、厳密には精神医学の対象ではないと考える立場も根強い。
・軽症うつの医療受診は「うつは早期受診が大切」といった製薬会社や精神科医による盛んな啓発活動を素直に信じた結果である場合が多く、受診した人には、たとえ健常である未病うつであろうと罪はない。健常者の対処を医療の専門家が行うのが望ましいととられかねないような啓発活動に従って医療機関を受診したところ、いったん受診すると、依存心が強くて自立心がないかのように扱われるのは、あたかも、製薬業界と医療現場の板挟みにあっているようであり、とても残念なことである。
未病うつは、いわゆる“うつ難民”として、「薬を飲むほどではない」「通院するほどではない」と常識的に考える者ほど、「どうしていいかわからない」と行き場を失ってしまうという実情がある。

1年11か月 振り返り

公私ともに12月から怒涛の忙しさで過ごす。

12月医療の授業としてのイベント1発目

第1回 職員会議 詳しくない人を巻き込むには?

お世話になっている知ろう小児医療守ろう子ども達の会でも依頼をいただき、

コラボ企画 (小児医療の)効果的な普及啓発の在り方

その他にも頂いた仕事があり、予想以上にギリギリまでの仕事になってしまいました。
年末は家族で旅行に出かけるための準備に追われ。

年明け後すぐに、第2回の打ち合わせ

第2回 職員会議 開催にむけて

はじめてのミニ講座の準備。

育休後Cafe with 医療の授業


ミニ講座は以前から準備していたのですが、第2回職員会議は急遽発表が決まったので
睡眠時間を削りながら準備しました。

第2回 職員会議 医療の授業を考えよう!

終わって一息つこうと思ったのも束の間

ファザーリングジャパンのファザーリング・アカデミーという企画での模擬発表

そしてもう一つ発表

「医療の授業」をつくりませんか? in MCD研究会

翌朝は読書会。


さすがに一気に走り過ぎて疲れました。
最後の読書会で引っかかることがあり、後味も悪く、そのまま精神的にダウンしてしまいました。
むしろ予定が詰まっていることで

「歩いたんじゃない、倒れてないだけ」

という状態だったと思います。

*****

第2回の医療の授業の打ち合わせをしているときに、気が付いていました。
本当はもっと前から気が付いているのですが、、、

「何をしているときが楽しい?」

活動をはじめた当初のモチベーションがどうしても戻ってこない。
必要性、やる気みたいなものはあるのですが、心の底から楽しむこと。

当時は自信満々で答えていた内容なのに、
あまりに長く病んでいたせいか。

この活動に限らず、何をやっていても「心の底から楽しむこと」ができない。

せめてもの救いは今のタイミングだということ。
年度末で息子は入学。PCの調子も悪く、やることはたくさんある。

ひたすら一人での時間が増えるのは危険だけど、
今はそれしか手につかない。

「寄り添う」への違和感 寄り添うぐらいだったらハブになろう

「寄り添う」という言葉。

相手を本当に理解するために。
辛い気持ちを支えてあげるために。

凄くいい響きで否定し難いものを感じるのですが、
私は時として、この言葉へ抵抗を感じることがあります。

医療分野に足を突っ込んでからこの言葉を意識するようになった気がするのですが、
調べてみるとこの記事の考えが近い。

 患者に寄り添わない医療に努めています:日経メディカル


著者:尾藤 誠司氏の書籍もおすすめ。

「寄り添う」ことへの違和感は次のような理由です。

過度の「寄り添い」は相手の自立への妨げになります。
相手のために長期的な視点で自律を促すためには、
適度な距離で寄り添うことが本当の意味での支援になります。

といったようなのはよく聞きますが、私の場合はそんな崇高な感覚ではありません。
自分には「寄り添う」ことができない。といった方が正しいです。
その理由は次の2つ

1.自分は専門家ではない。専門家、または自分より得意とする人へつなぐことが大事。

2.自分にはそこまでの精神的タフさがないし論理的な会話になり誘導してしまう。

1.については、前述の記事でいえば以下の2つの項目。

「その1 寄り添う医療は、自分のレールに患者を引き寄せ、自律性を阻害する」
「その4 寄り添う医療は、専門家の立場をしばしば崩す」

医療に関して活動をしていても、医療者ではない。という一線は引きます。非医療者です。
その立場をはっきりさせておかないと、私の言葉を医療者の言葉より信じてしまうことは簡単に起きます。

例えば、

「治療に不満があって医師を変えたい。どう考えてもこの治療法が正しいと思えない。」

これを後押しするのは簡単です。不満の気持ちに便乗すればいいのです。

しかし、そういった場合に相手の本当の利益を考えると「医師を変える」にしても、

変わる前後で医師の間で紹介があるか?
医学的な判断のもとで選んでいるのか?他の選択肢があるのか?

これこそが本人にとっての最終的な利益に直結します。

例えば、
 
 「その医者はやぶですよ。他の医者にした方がいい」

ということも出来ますが、

その医者の医学的な判断は間違っておらず、次の医者でも判断は同じだった。

ということは往々にある話で、次の医者は家から遠くなっただけになってしまいます。

自分のレールに乗せて、専門家の顔を潰すことをしない。専門家面しない。
それが気を付けている点です。


2.については、前述の記事でいえば以下の項目

その3 寄り添う医療は、寄り添えない患者を拒否する

全ての人がすべての人に寄り添えるということはあり得ません。
その中でも、私が寄り添える人というのはごく限られていると思っています。
それでも寄り添っていくとすると相当な体力や忍耐力が必要になります。
自分が先に壊れます。間違いなく。

それに私よりうまく「寄り添う」事が出来る人はごまんといるでしょう。
それは傾聴の訓練を受けている人、経験を積んでいる人。
同じような経験をしている人。それを自分の仕事ととしている人。
そういう人が必ずいるので、よほど自分に自信があるときでないと、
「寄り添う」ことはできないと思います。

******

私も娘の病気のことで同じ疾患の方と連絡を取ることがありますが、
あくまで支援については一定の距離を保っています。
寄り添いません。もっと寄り添える相手がいるのはわかっているので。

それでも連絡を頂くたびに感謝の言葉を頂きます。

客観的な情報と個人的な経過をただ発信する。
もう一歩踏み込めば、もっと出来ることはあるかもしれません。

それでも今の形も役には立っているようで、
自分にできることの選択としてはいいのかなと思います。

******

ここまで書いていても「寄り添う」ことの効果、本当の支えになっている話は幾つも聞くので、
たまに自分もやった方がいいのか?なんて思ってしまいます。

「寄り添ってもらえる」場や人は、心の支えになるんですよね。
自分も欲している時もありますし、必要なのは間違いないです。

ただ、自分にはできないので、もし、もう一歩踏み込むのであれば、「寄り添う」のではなく
「気づきの場づくり」がしたい。
相手を自分で抱え込むのではなく、相手自身へ直接変化を促す場です。
そして参加者同士が「寄り添う」、または「寄り添える」場や人を紹介する。

「寄り添う」のハブになれたらもっと多くの人の支えになれるだろうな。
と感じるのです。

子育て中の親には不健康要因が揃っている

子どもの予防接種、検診、通院はしていても、自分の健康は後回しになっていませんか?

子どもはよく風邪をひくけど、20〜40代ぐらいはまだ元気。
かく言う私もそう思っていたですが、通院者は30代以降の方が多いんですね。


(分母には入院者数を含むが、分子には入院者数を含まない)
平成26年 グラフでみる世帯の状況(政府統計)より(PDF)

医療費のグラフをみると子どもの方が高いので、通院者も多いと思っていたのですが。



医療費と通院者数が逆転するのは、乳幼児の通院一回当たりの単価が高いからと思われます。
乳幼児は医療費の補助があるため、窓口での自己負担は少ないですが、
実際は手間のかかる乳幼児には医療費が加算され、同じ内容の受診でも医療費は高くなります。

意外に健康じゃなさそうな30〜40代。
特に乳幼児をもつ親世代の生活習慣の実態については以下の3点が指摘されています。

①自分自身の健康や生活習慣には関心が低いが,子どもの健康や生活習慣には関心が高い

②睡眠不足や自分の時間が持てないことから、育児負担感が強く、ストレスが多い

③運動に対しての時間の確保や実施が困難
※千葉看会誌 VOL.17 No.2 2011. 12
 わが国における乳幼児をもつ親世代の生活習慣の実態より

子どもができると・・・まずは自分に対する健康を意識が低下します。
・職場を離れ、検診の機会が減る(特に女性)
・子ども優先、自分を後回しにするため通院が悪化してからになりがち
(それでも通医者率は大人の方が多いんですね)

ストレスも多い時期です。
・乳幼児をもつ親世代は、男女とも悩みやストレスが多く。心の病気の通院率も上位に入っている

自分の自由に使える時間も少なく,運動実施時間も短い。
そりゃ健康にはならないですよね。。。

この点では「子どもと運動する」というプログラムはとても有効ですね。
やっぱり週末は子どもと外で遊んだ方がいいのか〜